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-----横浜国立大学第5回ホームカミングデーご参加のお願い-----
横浜国立大学工学部近畿同窓会の皆様
横浜国立大学第5回ホームカミングデーは10月30日(土)午前10時から
常盤台キャンパスで開催されます。
今年のホームカミングデーは、「世界に羽ばたけ YNU!」を掲げ、大学の
国際化を推進する母校を、卒業生として支援する企画にしました。
午前中のメイン講演会では、国際舞台で活躍する卒業生の講演があります。ま
ず、鈴木邦雄学長の挨拶に続き、上海交通大学副学長の陳剛さん(工学部OB)
による「上海交通大学の国際戦略」、エスエス製薬コーポレートコミュニケー
ション部長の中島恵理花さん(教育学部OB)による「YNUの国際化に向け
た広報活動とブランド力強化について」が用意されています。
その後、多彩なイベントが準備されていますが、工学部関係では次の二つの講
演があります。建築界のノーベル賞として定評のあるプリツカー賞を、今年度
受賞した西沢立衛さん(建築OB、教授)の受賞記念講演、水素エネルギーの
世界的権威・太田健一郎さん(教授)の講演です。
その他にも、マスコミにもよく顔を出す経済アナリスト・河野龍太郎さんの講
演(社会科学系)、生物多様性の講演(環境情報)など、盛り沢山です。
詳しくは、下記をご覧下さい。
http://homecoming.ynu.ac.jp/
秋の一日、どうぞ常盤台キャンパスでごゆっくりお過ごし下さい。近畿同窓会
の皆様の参加をお待ちしております。上記URLからウエブ登録ができます。
なお、どうしてもご参加できません会員の皆様には、ホームカミングデーのた
めにご寄付をお願いできますと幸いです。
第5回ホームカミングデー実行委員長
渡辺 慎介 (電気・昭和41年卒)
「横浜国立大学同窓会近畿支部の皆様へ」
樹神 幸夫 (昭和52年機械卒)
初めて、寄稿させて頂きます。私は、昭和52年機械工学科卒、54年修士課程 機械工学専攻科 修了の樹神(こだま)と申します。大変珍しい苗字ですので 初対面の方には必ず何処の出身ですかと聞かれます。難読苗字で何回かテレビで紹介されたり、人名辞典にも載っていますが、この苗字は愛知県豊田市に多く、 私の祖父も豊田市の出身です。樹神ともう一つの苗字だけの村であったそうです。先祖は地方の豪族か神主と伝え聞くのですが、歴史には出てきませんので大し た事は無い様です。まだ一度も訪れた事がありませんので、時間を作って現地で祖先について調査したいと思っています。
さて、私自身は大学院を修了するまでの24年間を神奈川県で過ごし三菱重工業に入社しました。当時の京都精機製作所(現、工作機械事業部)に配属されてか ら、もう関西圏の生活の方が長く、今ではすっかり関西人になっています。関西弁はしゃべりやすく、半年もすると感化されてしまうものです。横国出身者の同 窓会でも近畿支部では関西弁が主流だったように思います。
学部も院も中山研で加工技術の研究をやっていましたので即、工作機械事業部に決まってしまった様で、入社以来ずっと工作機械事業の業務に携わっています。 現在、工作機械業界は非常に好況で1兆4千億を越える受注が数年続く見込みです。工作機械はマザーマシンとも言われますが、機械を作る機械ですので、日本 の製造業を支える非常に重要な産業であると自負しています。弊社の主要なお客様は自動車や二輪車、トランスミッションメーカ、建機と言った業界に多く、こ こ数年、世界各国での現地生産展開が盛んです。国内で実績のある生産システムや生産設備を、現地に設置されるのが基本的なスタイルで、近年はBRICSへ の投資が盛んで、世界中の殆どの国へ輸出しています。
弊社が扱う工作機械は切削加工機械ですが、最近の特徴として複合化、高速・高精度化、知能化が挙げられます。複合化とは、旋盤やフライス盤など従来単独の 加工方法を提供していた機械を一台の機械で様々な加工が可能となるように、主軸やワーク台を多数装備したりして高機能化した機械です。高精度化のレベル は、1μm単位の加工精度を温度変化のある空調無しの工場環境で安定して実現するレベルです。知能化は機械が自分自身で人間から指示されたプログラムを運 転中にチェックしながら、プログラムミスを見付け、ワークや治具、工具との干渉等を防いでくれるというレベルまでになっています。日本の工作機械業界は世 界No1の座を二十年間以上堅持しています。これはやはり、日本人のもの作りへの意欲、関心の高さが原動力となっていると思います。今後も後輩へ、もの作 りの魅力、工作機械の魅力を伝える事が出来るよう微力ながら尽くして行きたいと思っております。
最後になりますが、同窓の皆様のご多幸とご健康を祈念しつつ、筆を置かせていただきます。乱筆乱文御容赦下さい。
以上
「横浜国立大学応化会近畿支部の皆様」
加藤益弘 (昭和50年応化卒)
初めて、支部会報にてご挨拶させていただきます。私は、昭和50年応化卒の加藤益弘と申します。卒業後、東工大で修士課程を修了し、住友化学工業株式会社
医薬品事業部(後に住友製薬株式会社)の研究所に入社しました。そこで、抗生物質の創薬研究に携わって以来、製薬業界に身を起き、2004年末までは研究
開発畑で仕事をしてまいりました(その間、1996年に英国系のアストラゼネカという製薬会社に移籍しました)。
2004年12月に、代表取締役社長を拝命しまして、現在にいたっております。会社の経営の中心はMarketing & Sales
で私にとりましては全く新しい分野でしたが、事の本質を見極める大切さは、研究開発でも営業でも変わることはないと言い聞かせながら何とか無事に過ごして
きました。3年弱のマネージメントから得た考えは、『つまるところ経営は感性である』と言うことです。マーケティングのポッター博士や経営学のドラッガー
博士の理論を知ることも大切ですが、肝要は事の本質を見極め自由な発想で対処できる感性を持つことではないかと愚考しているこのごろです。
プライベートでは、ある意味では仕事以上に忙しくしております。私は父の影響で昔から絵画が好きでしたが、5、6年ほど前から油絵を始めました。縁あって 新槐樹社という画壇に所属させていただいています。毎年春に、上野の東京都美術館で画壇の公募展が開かれます。そこに、100号(160cm x 130cm)の絵を2枚出品しなくてはなりません。その他にも秋に選抜展がありますのでそこでも1枚。この大きさの絵を一枚描くのに大体50から80時間 くらい掛かりますので、締め切りの数ヶ月前からは土日は絵、平日は会社、その合間に、どうしても断れない?(本当は下手の横好きなのですが)ゴルフをやる という日々が続きます。しかし、仕事と全く関係のない分野で、絵の構図をどうするか悩みつづけ、色の配置を考えて半日キャンバスとにらめっこしているよう な時間を持てることは、多分私の精神衛生上も良いことなのではないかと思っています。そうそう、感性を磨くのにも役に立っているかもしれません。
このような状況ですので、一生忙しく過ごすのが私の運命なのであろうとあきらめつつ、最近、特に早く過ぎると感じるようになった時間を充実感をもって過ごさせていただいているこのごろであります。
最後になりますが、同窓の皆様のご多幸とご健康を祈念しつつ、筆を置かせていただきます。
以上
「故佐藤恭禮氏のご逝去を悼んで」
名誉支部長 藤見眞廣
平成19年4月17日撮影
あのお元気だった故佐藤恭禮兄が急逝されました。病名は腹部大動脈破裂だったそうであります。
私がご家族より電話でこの事を伝えられたのは4月の末の事でありましたが、それより先4月22日午後発病され、23日午後3時過ぎに他界されました。心よりお悔やみ申し上げます。
故佐藤兄は小生と同じ、大正11年生まれで、享年85歳でありました。
同氏は埼玉県浦和中学校卒業後、横浜高等工業専門学校(現在の横浜国立大学工学部の前身)の機械学科に進まれました。同氏は早生まれのため、私より1年上の先輩に当たり、卒業年度、専攻学科は違いますが、過去40年私的にも、大変深い親交を続けて参りました
。
同窓生として同窓会活動で常に協力し合って参りましたが、さらに同じ生まれ年として(大正11年・戌年)、大阪在住の同年生まれの有志で組織されている
「大阪のらくろ会」に早くより入会され、大変出席率がよく、ここでも私の先輩でありましたが、この頃では毎月の例会には必ず隣合わせに席して、酒盃を重ね
てきた仲であります。
故佐藤兄は昭和16年12月戦時繰上げ措置により卒業後、直ちに入隊し、陸軍少尉
として、第二次世界大戦中マニラにおいて米軍と戦火を交えた勇士であります。
帰国後は日産自動車に入社し、大阪日産タクシーサァブ㈱の代表取締役にまで栄進されて退職されました。
横浜工業会・近畿支部の運営・発展には殊の外熱心で、若いころより進んで支部の幹
事役員を引き受けて来られました。
昭和45年6月に支部が発行した「会員名簿」には沢山の先輩達に交じって幹事の欄に名を連ねておられます。昭和49年7月発行の分には副支部長に就任されています。
さらに昭和51年および60年発行の「会員名簿」には筆頭副支部長として、支部の
維持・発展にご尽力された跡が歴然と記録されております。
当支部の支部活動が特に活発なころ、支部として年一回の総会の他、随時全会員を対象に各種の企画が開催されて来ましたが、そのおりたとえば「奈良において
開かれたシルクロード展の参観」とか、「大阪南港の海遊館や海上視察の企画」などにおいて、故佐藤兄の活躍しておられたお姿が今、目の前に浮かんでまいり
ます。
また横浜国大の工学部卒業生と経済学部卒業生の有志の間で組織されている「ニ木会」が発足したのが昭和47年で、今年で35年を経過しておりますが、故佐
藤兄の入会年度は昭和52年でこの会が発会してから僅か5年の事で私の入会年度より10年も前の事。その位早くより積極的に同窓会活動に参加されて来られ
ましたこと、深く敬意を表するとともに、ご苦労様でした申し上げる次第であります。
改めて故佐藤恭禮氏のご冥福をお祈り申し上げます。
以上
「松下電器内における近畿支部事務局時代の思い出」
小川 博通 (電化 28年卒)
大学卒業以来、大阪住まいを半世紀続けていますが、私と横浜工業会近畿支部(当時大阪支部)との係わりは、社会人になった初めの年に確か梅田阪急百貨店の大食堂だったか、特別食堂だったか、で開催された夕食会形式の総会に参加したときだったと記憶します。
新人としては存じ上げている先輩もほとんどなく心楽しい集いとは言えませんでした。その後、総会にはなるべく参加するように努めていましたが、松下に入社した後輩たちから、他の大学卒の人たちは歓迎会を開いてもらっているけれど、横浜は何故しないのかと言われました。
そこで、当時の松下電工を含む在阪の松下電器内の横浜高工・工専・工学部の方が声をかけ、オープンしたばかりの心斎橋のキリン会館で歓迎会を兼ねた横浜
工業会松下支部発足総会を開催しました。その折、故東国徳先輩から総会開催の労を労わると同時に「君は矢張りアプレ(戦後派)やね」と揶揄されたことを覚
えています。それは松下電器創業者の松下幸之助氏が、社内に学閥をはじめとする派閥が形成されることを忌み嫌っていることを知っているはずの私がこのよう
な会をまとめたことへの警鐘だったと思います。
この会は東さんが第5代の横浜工業会近畿支部長に就任された時に発展的に解消されました。
前置きが大変長くなりましたが、松下電器内に事務局がおかれたのは、東さんの支部長在任期間と同じ昭和41~62年(1966~1987年)の21年間に亘ります。後半の昭和54~62年の8年間は松下電池工業内におかれました。
その間、原則として就業時間内には工業会の仕事は公然と実施しないようにし、会員以外の社員に絶対に手伝わせることはしないように心掛けました。総会や
見学会のときはどうにか出来ますが、会員名簿を作成する時期は、現在のようにPCが普及したIT時代ではなかったので、結構繁雑な作業がありました。そこ
で仕事を自宅に持ち帰り、家族に手伝ってもらったりしました。要するに特定の人員のボランテイア活動による運営でした。
当時の支部幹事のなかで、支部会館を設置し、会員相互の親睦を場にしようとする考えがありました。そのための資金の蓄積が検討されましたが、具体的には
名簿作成時の広告収入ぐらいしかありませんので、ある時、総会を松下電池内の講堂で開催し、懇親会に女子社員を手伝わせる案が持ち上がりました。懇親会会
費あら出費する経費を削減し、収益を高めようとする考えでした。
事務局を担当していた私がこの案をお聞きして愕然としました。そこで、即座にこれまでの事務局のボランテイア活動による運営の考え方を申し述べ、そのよ
うなことを強行したら、社内にアンチ横浜の気運が煽ることになるので、思い止まるよう懇願して断念してもらい事なきを得たことを想い出します。このような
状態がいわゆる近畿支部の黄金時代の実態です。
長い年代に亘る同窓会のあり方は、各年代毎の価値観が多様化していますので、一本にまとめることは大変だと思います。同窓会は会員相互がGive
and Take をベースに、公私に亘って情報交換することにより参加することに意義があるように運営されることが望まれます。そのためには、事務局、
世話役は学科別に選出し、相互に連携し、ボランテイアをベースに運営することが肝要と考えます。
以上
「支部の先輩方を思う」
相川 三郎 (建築 昭和22年卒)
大阪に在住が昭和10年かれ、学校卒業後1年を経て、昭和23年から再度大阪に住み続け、府立高等学校の教員を長く勤めましたが、帰阪当初は横浜の同窓
会的なものの存在を知りませんでした。当時、先輩で教員をやっておられる方は一人も無く、若い教員仲間で横浜出は珍しがられたものです。
若い教員として、生徒達とワイワイと日常生活を楽しんでいた頃、ある日突然、岡村保雄(応化13年卒)さんが訪ねて来られました。横浜の先輩と聞いて
びっくりしたのですが、岡村さんの話しによると、私の勤務高校の教員S氏と、岡村さん勤務の東亜ペイント(現トウペ㈱)のK氏が、金沢の大学の同窓で、幸
いお互いの勤めが近くだったので、担当する技術の問題等で、よく会社を訪れていたそうです。
岡村さんが、同窓会支部の復活の立ち上げに努力しておられた時期であったようです。S氏が岡村さんとの話しの中で、本校に横浜での教員が居る旨の会話が
あって、早速にお訪ねがあったようです。私も横浜のいろいろのお話と、先輩達が各社で活躍されていることを聞き、支部の立ち上げに協力すべきと思い参加を
約しました。ご承知のように岡村さんは、明るく活達な方で、声も大きく行動力ある人で、当時会社の開発研究部門で大いに活躍されておられた由です。
第一回復活支部総会は、朝日ビール西宮工場の見学会を兼ねて盛大に開かれました。工場長の故黒岩義一(電化 大正12年卒)さんに大変お世話いただき、
新旧入り交えての同窓生が痛飲したものです。説明の中で、ビールの原価は店頭の1/10以下で、大部分が税金ですとの説明に驚き、今だにビールを飲むとき
は税金を飲むとの意識が離れません。
支部は工場見学等を活発に行いました。戦後の技術開発と新しい知識を求めて、皆さんが積極的に参加し、活動している様子が、若輩のわれわれにもよく感じとれました。お手伝いするうちに、随分と沢山の先輩たちを知り、心強さを感じたものでした。
支部幹事たちの打合せ等もよく行われました。支部事務所を、故澤田来一郎(電化 大正13年卒)さんの会社におき、故立川四郎(造船 昭和9年卒)さん
も同居しておられたと思います。各科出身の先輩達が集まり、打合せの途中から酒盛りが始まります。事務所が北区兎我野町にあったので、大阪駅前の闇市の闇
市に1升瓶をぶらさげてドブロク買いです。一番若手の私がその役目、一升瓶を風呂敷にかくして走り回りました。
今思えば夢のような話ですが、皆さん決起満々の感じがしました。
支部長が故赤松修(建築 昭和3年卒)さんに移り、同氏が支部の皆さんが仕事の合間に自由に集まりお茶を飲みながら会話や商談ができるような場所の事務
所を、市内の中心街にもちたいと考え、知人の喫茶店経営の方と、交渉を重ねられました。いわゆるサロン風なものと思います。結果は実りませんでしたが、赤
松さんは建築家であると同時に画家で、沢山の作品を残されました。
故立川四郎さんは、行動的に常に走り回り、会の運営に良いアドバイスがあったものです。私もよく指導を受けました。立川さんは旧海軍技術将校で、よく語
り、よく飲み、常に大声で話かけられました。ある時「君はN先生を知っているか、あの人は酒が強いな」とのこと、当時N先生という人は、私の勤務高校の校
長でした。校長に呼ばれて、ビクビクしていたら「君は立川四郎さんを知っているか」と。立川さんの奥様は旧府立河北高等女学校出身でN先生が担任であった
とのことです。卒業後もたびたび開かれたクラス会のあとで、立川家に立ち寄り、また痛飲し、立川さんと語り合っていたとのことです。不慮の死をとげられた
立川さんの北区大融寺の告別式が印象に残ります。
また、故小峰太郎(応化 昭和2年卒)さんも大先輩として常に出席され、乾杯の音頭をとられましたが、常に綽々としておられ厳しい意見を頂戴したことが
多かったように思います。小峰さんは世を去るまで、静岡放送局に勤められていました。これまた、不慮の災害にあわれ、奥様ともども逝去され、いたましい限
りでした。
工業会をつうじて、多くの先輩方にお教えを受け、また後輩にあたる方々にお世話になりましたが、関西の地に長く住んで、やっぱり横浜を出てきたことが、私の人生に大きく影響していることを、今更ながら深く感じている昨今です。
故人になられた多くの先輩かたにあらためて敬意を表します。
同窓会支部は「心のふる里」
稲岡幸司(機械昭22年卒)
戦前、戦中、戦後を一貫して自由主義教育を貫かれた横浜高工創立者鈴木煙洲先生の教の下に学んだ同窓生の集いの関西版が近畿支部で、私は現役時代から長
く出席させて頂き、お世話になっている一人です。特に現役時代は各産業界で多分野に活躍されている同窓生との意見交換が大変有益だった。 現役を退いてか
らは、これからの人生のあり方、生き方に就いて,更に、仕事に,趣味に,先輩、後輩の方々の生き様が、残された人生をどの様に有益に生きるか,学ぶことが
多かった。
母校が新制大学に変わり,時代の変遷があっても、同じ学園に学んだ同窓生が老若男女を問わず,気安く一同に集い,仕事に,人生に語り合える同窓会支部は「心のふる里」である。
特に現役、又は定年卒業直後の若い人達の参加を期待したい。益するところ大きい筈だ。
一度壁を超えて参加すれば、後は楽しく当日が待たれる筈である。
横浜工業会近畿支部の行事の思い出:高松塚古墳見学会
泉 保 (航空工学科昭和19年卒)
奈良県明日香村の高松塚古墳で、玄室の内面に壁画のあることが発見されたのは昭和47年(1972)3月のことである。この発見から古代史ブームが発展したと言っても過言ではなかろう。その意義は計り知れないものがある。
昭和53年4月16日、横浜工業会近畿支部で高松塚古墳の見学説明会が行われた。家族同伴可であった。この見学会の最大の焦点は、この壁画の発見者である
関西大学の網干善教先生(現名誉教授)の現地説明があることだった。当日の参加者は50名以上だったと思う。この有名な先生の現地解説は珍しいことであ
る。冒頭、先生は本日の説明会は関西大学の事務局から頼まれた。事務局には何時も世話になっているので,断れないとの冗談から話しは始まった。(故阿部實
氏前近畿支部長が関大の後援会長をしておられたようだ。)その後先生は岩尾山古墳(近鉄、飛鳥駅の北西)、それより南方のマルコ山古墳へも案内してもらっ
た。
注 編集者記
この他支部会員の関係工場などの見学会は度々開催されたが,そのほかに例えば
など適時,適所の見学会が開催され、その都度多数の会員及びご家族の参加があった。
ユニークな学科横断的同窓会
―「おじさん敬遠症候群?」はいつしか消えた ―
藤 田 彰 久(機械昭和24年))
私が大阪に来たのは偶然でした。海軍のエンジニアだった父親が終戦の残務整理(豊川海軍工廠)の一環として、部下たちの再就職先を世話した会社が大阪に
ありました。10人余り送り込んで一年ほど、ようやく整理がついて東京の会社に行く話が決まりかけていたところに、大阪のその会社から強力な勧誘があっ
て、父は大阪に再就職しました。私の在学中のことです。長男の私も大阪に移りました。
当時は就職難、しかし遊んでいるわけにはいきません。父の知り合いの大阪府立産業能率研究所(能研)に無給の研究生(という名目)で通うことになりまし
た。そのうちだんだん面白くなって、ついつい今日に到った次第です(関大へは、能研の部長のとき、それまでに阪大や府立大などの非常勤講師を務めたことな
どもあって誘われ、移りました)。
能研かけだしの頃、大先輩小峯さん(応化)から、見学会に出席しては、と強く誘われました。内心、おじさんたちと付き合う気はあまりなかったのですが、
行ってみると、見学会が大変勉強になる「場」だということが分かり、以来、都合をつけてはほとんど出席するようになりました。諸先輩からいろいろ教えてい
ただいたり可愛がられたり、でいつの間にか「おじさん敬遠症候群?」は消えていました。不思議なものです。
会合では、無類の世話好き小峯さんをはじめ、父もお世話になった岡村さん(応化、戦後「工業会」の立ち上げに大変尽力されたことをのちに知りました)や
薮田さん(機械)、家が近かった相川さん(建築)、そして運営の総帥東さん(電化)・コンビで取り仕切られた立川さん(造船)、などなど諸先輩のお導きで
随分勉強させていただきました。
さて戦後60年、思いのほかの新世紀ではありますが、身近にも考えるべき課題が山積しています。「成熟」がもたらす〈モノからコトへ〉のパラダイムシフ
ト、そのグローバルな差異、予断を許さぬ中国の変貌と影響、黄金時代を偲ばせる新テクノロジーの輩出、ITの個化・私化にともなう多面的課題、等々、21
世紀の基軸原理「持続可能な発展」を基底としつつ取り組まなければならない問題がひしめいています。
振り返ってみれば、横浜工業会の学科横断的特質ゆえの多面的〈交流と学びの場〉は私にとって貴重なエンジンでした。この時期、改めて経験豊富な先輩方の知見を糧として問題解決に活かせるような〈場〉の復活を、と願うのであります。